父へ
「父 死亡 至急連絡こう」母からのメールを見てエイプリルフールの冗談かとカレンダーを確認してしまいました。それほどリアリティのない知らせでまだ信じられません。
友達もいっしょにフライトを探してくれましたが地球の裏側からは2日以上かかるようで式には間に合いそうにありません。変わりに日本へ向かう南米の上空で手紙を書きました。普通の式よりこういうのもあなたの息子らしくておもしろいでしょ。ヒューストンからいつか父がくれた大志を抱けという手紙の返事を今日します。
僕はあれからずっとその言葉を胸に、大きな夢に向かって挑戦の旅を続けています。父から譲り受けた才能を無駄にはしてません。いつもU23やスタッフのことを気にかけてくれ、死んでも帰ってこなくていいと言っていたようですが、弟がいるとはいえ今まで父が気にかけてくれていた母のことが心配なのと、自分がいなくても大丈夫な会社にまで成長したことを報告しに帰ります。
父は人生の半分以上を不治の病と共に生きていました。
病人のくせに酒飲みでタバコを好きで働き過ぎで、病気のことは話さないしそんなそぶりも見せないのでどこが悪いのかかわからないような人でした。透析しないと死んでしまうのに怖くない訳がありません。辛くない訳がありません。しかし弱音を吐くことなく誰よりも誇り高き人でした。そんな父の背中を見て僕らは育ちました。僕らの中に宿るその貴い遺伝子を大切にします。
父はとても博識な人でした。
子供のころからわからないことは父に聞けば何でも教えてくれる博士でした。大人になってからもそうです。今まで教えてもらったことは数えきれません。そのすべてが僕の血肉となっています。もし病がなければこの人にできないことなんてなかったんじゃないかとさえ思います。僕はこれからわからないことがあったとき誰に聞いたらいいのでしょう。
父ほど信頼できる人はいませんでした。
どんな時もこの人がいたら大丈夫、この人の言う通りにしていたら間違いない、そんな絶対的な信用がありました。父が守ってくれると信頼しているから、失敗を恐れず自由に生きることができました。僕の自由奔放さは母は譲りと思ってましたが、それを見守ってくれる父のおかげなんだと気づきました。これからは僕と弟で父が生涯愛した母を守ります。
起業したときから親の死に際に会えないかもしれないという覚悟はしていました。とはいえど、この前まで元気だったのにちょっと早すぎませんか。それだけ重い病を抱えていたのですね。人生の時間は限られているということを自らの命をもって伝えてくれたのでしょうか。まさかこんなに早くその時が来るとは思ってなかったので、まだあまり親孝行ができてません。足りない分は父の言葉を胸に夢を叶えることで返します。天国で応援していてください。
最愛の父を誇りに思います。最高の未来をくれて本当にありがとうございました。いつまでも忘れません。安らかな旅立ちを祈っています。
賢祐より愛を込めて