メキシコ・パチューカで圏外の暮らしの中で内海賢祐に迫る

今月もメキシコで暮らしている。先月の記事に対して、自分で自分にインタビューをして自分自身に迫る。自分がどれだけやったか、自分に何が足りないか、自分史を振り返ってみた。未来を変える鍵は、いつも自分の中にある。人生という旅も、目的地・現在地・経路がわかれば、あとは走りまくればいい。

内海賢祐の挑戦の歴史

振り返ってみると子供の頃からなるべくして今の自分を作っている。過去の点と点は、未来の線につながっている。未来から見るともっとこうしていたらうまくいったかもしれないことはいくらでもあるけど、その時にベストを尽くして失敗したのだから、それはベストを尽くしたってことだ。あの時代と環境でよくやった自分を褒めてやろう。リスクを冒して新しいことに挑戦し、何回転んでも立ち上がり諦めず挑戦を続けることを誇りにしなけれいけない。まだまだチャレンジできるし必要だ。人生は計画通りにいかないことだらけで、だからこそおおもしろい。旅の価値はその過程にあるのだから。

兵庫(小中高学校)時代

父親の転勤のため急に神戸から龍野に引っ越しが決まり、入園を予定していた芦屋(都会)のお坊ちゃんコースから龍野(田舎)のガキコースへ。

小中学時代は、マラドーナに憧れたサッカー少年。文武両道トップ。地元を出たこともない同級生がいる中、一人で電車に乗って神戸に遊びに行くませた子供で旅人の片鱗を見せる。中学の時に海外に興味を持ち高校留学を考えるけど、この頃はまだ海外が遠く、地元の高校へ。

高校時代は、レールから外れ、学業はトップの成績で入学しほぼビリまで落ちこぼれる。高校3年の夏に遅れて受験戦争に参戦。再び大学留学を考えるが、家族の負担を考えすぎて海外は遠くなり、なんとなく地元の大学へ進学。部活はサッカー部で、GKに、翌年には正GKの座をつかみ、最後は県選抜の後輩GKが入部するもレギュラーを死守。入部試験ではレギュラー(目的地)になるのは絶望的なスコア(現在位置)だったため、一番チャンスのあるGKに速攻でポジションチェンジ(経路変更)した作戦が功を奏す。

Hint: 成功と挫折を体験する。目的地、現在地、経路を知り逆境を乗り越える。

兵庫(大学)時代

大学時代は、車で暮らすセミノマドライフとパーティーの日々。それなりにおもしろいこともしたし、もっとおもしろいこともできた。人生のいろんな「初めて」を経験し、いろいろ「始めた」。サークルを立ち上げたことやイベントを企画して開催したこと、飲食店から肉体労働、事務職までアルバイトを経験。家庭教師を個人契約で独立したこと、念願の海外留学とホームステイ、バックパッカーでヨーロッパ一周の旅をした卒業旅行、これらの点と点は未来の線につながり、U23につながってる。卒業後の進路は、海外就職を夢見るもこの時代の海外はまだ遠く、就職活動戦線に参戦。体験入社などもした後、海外事業を目指し日本企業へ就職。

「初めて」にチャレンジする。やりたいことを「始める」。点と点を未来の線につなげる。

名古屋(社会人)時代

死ぬほど働いた新卒社会人時代は、入社してから1年間に、名古屋、滋賀、沼津、横浜と4回の転勤。姫路で体験入社、東京、三重、熱海へ国内出張、オーストラリアへ海外出張。引越しの度に荷物を減らし、最後は段ボール一つでノマドライフ。

夢のオーストラリアへ海外出張する海外事業部の枠は社員から実質1人だけ。入社以来ずっとオーストラリアへ行きたい情熱を宣言し続け、上司や同僚に支えられその夏の全国一らしい営業成績を残し、新卒同期の中で最速となる半年で店長に昇進、そして念願のチケットを手に入れる。オーストラリアへホームステイプログラムの先生として子供たちを引率したことや会社で働いた経験は、U23の起業につながる。

そして、入社してから一年後、やりたいことをやるために日本でのワールドカップの開幕日に会社を辞める。これも入社時から友達には宣言していた。退職の背景には、海外事業部の仕事は年に一回でその活動を増やすためには役員になっても難しいことや次々と上司が力尽きて退職する過酷な労働環境で長期休暇は難しい会社の方針があった。心機一転、2002年ワールドカップの旅をした後、子供の頃からの夢だった留学を実現する。

Hint: やりたいことは宣言して挑戦すると応援してくれる。情熱は夢を叶える。

トロント(留学生・起業家)時代

留学生時代は、勉強も仕事も遊びも朝から晩まで全力疾走した。仕事が見つからなければ半年で帰国する覚悟で、英語を身につけるため語学学校に全財産を賭ける。語学学校に通いながら、学校でボランティアを始め、留学エージェントでインターンシップを始め、カフェでパートタイムの仕事を始め、留学して半年後、2003年、トロント、シェアハウスでU23を創設する。経験も資金も人脈もないゼロからの起業。

別に起業したかったわけではないけれど、おもしろいことをしたくて始めたU23。常識に縛られない未来の留学エージェントU23は、過去の点と点が線につながり革命を起こす。

創業期は学校に通う傍で、スタートアップのようにインターネットとiBook(当時のMacBook)で、いつでもどこでもノマドワーク。オフィスはSOHO(スモール・オフィス・ホーム・オフィス)で、シェアルームからシェアオフィスへ、M&A(吸収合併)を経てトロントの中心に単独でU23オフィスをオープンとステージを駆け上がる。遊びで始めたアクティビティで有名になり、1周年記念U23 Partyは、当時最大の留学生コミュニティとイベントとなる。そこはまだ誰もいない、後に流行る言葉で言うブルーオーシャンだった。ロングテールと呼ばれるようになる留学生の少ない小さな学校も紹介をして、まだフリーミアムという言葉が知られる前に業界に先駆け無料で情報とサービスを提供した。口コミで広がりリピーターを増やし留学生のプラットフォームとなった。サポーターと呼ぶボランティアスタッフやトレーニーと呼ぶインターンシップと成し遂げた。スマートフォンはおろか、FacebookもTwitterもYoutubeもまだない時代。

走り出したU23を止めるわけにはいかず、留学前に考えていた次の国へ行く予定を変更して、未来に起きる問題に先手を打ち日本に会社を作る必要があると考え神戸へ帰国する。日本から現地へ進出はあったけど、現地から日本へ進出するのは異端だった。ここから10年ぐらい日本とカナダを拠点に暮らすデュアルライフが始まる。

Hint: 常識に縛られない。

神戸(経営者)時代

神戸時代は、時差と距離との戦いだった。日本の最初の拠点を考えた時、地の利を生かせコストパフォーマンスに優れスピードを加速しやすい地元の神戸に法人を設立し、札幌に帰国した元スタッフを招集。SOHOをレントして、人手が足りない分はテクノロジーとクリエイティビティで補うため資金はないけどMacに投資は惜しまなかった。当時最新鋭のデュアルディスプレイを導入し、サーバーを設置し、一人で何役もマルチタスクをするためにさらにMacを増やした。トロントと神戸でリモートワークを行い、当時最先端のビデオ会議をして、サーバーで情報を共有した。スタッフが増えスペースが足りなくなったオフィスは、フリーアドレスを導入するなど制限の中で知恵を振り絞った。自分もスタッフも幼くはじめてでわからないことだらけの状況で、PDCAサイクルを高速で回し、トライアル・アンド・エラー地道に繰り返した。ランチェスター戦略とかパレートの法則とか、大学で聞いたことがあるような経営の用語もこの時期に覚えた。

覚悟はしていたけど想像以上に時間と距離は難題で、トロントと日本の時間を合わせるため早朝3時に起床したり昼夜逆転の生活をした実験の末、その土地ではその土地の時間で暮らし働けるようにしないと長続きしないとの結論に至り、これを克服するために時間と場所に縛られないFuture Work《未来の働き方》が生まれた。そして幼年期に終わりを告げ、東京進出を決意する。

Hint: 逆境から革新が生まれる。

東京(経営者)時代

東京時代は、創業期からの構想を実らせた時代。次のステージへ進むために神戸を後にし、東京へ本社を移転する。まずはオフィスの物件探しからといっても、神戸なら三ノ宮、大阪なら梅田か難波、京都なら河原町と迷わないけど、東京は、渋谷・新宿・六本木・青山・銀座・秋葉原…と選択肢が多い。慣れない土地で直感を信じてお茶の水のSOHOに決める。なお、U23はカナダの留学エージェントが日本へ進出のパイオニアとなり、数年の後、U23を追うように日本にオフィスを開く同業他社が増える。

引越しは、友達や恋人に手伝ってもらい自分たちでやった。トラックを借りて神戸の荷物を乗せる。そして、東京まで半日かけてドライブして、日が変わる前に積み荷を降ろす。ここからは、ほぼ一人で1週間ほどかけて最低限の形が整うと、すぐにオープンして通常業務と同時進行でアップデートを続ける。ソフトウェアをベータ版でいち早くリリースしアップデートで完成させていくのはオフィス作りも同じだ。何もない部屋を近未来映画に出てくるような空間にDIYでリノベーションした。この経験は7年後に始めるゲストハウスやシェアハウスでも生かされる。

2年後には2.3倍ほどある隣の部屋に移転した。リニューアルも友達に手伝ってもらいお正月休みに一夜城を築いた。ここでは毎週のようにイベントも開かれ、その洗練し尽くした未来の空間は、そこに訪れる人に圧倒的なインパクトを与え、U23 Design Factoryの最高傑作として今なおファンに語り継がれる。

トロントから帰国したスタッフを東京で採用し、東京でトレーニングしてトロントへ送り出す、創業時からイメージしていた理想の環境も完成した。日本の企業に就職していた元トロントのスタッフやインターンを誘うと、名だたる有名企業を辞めてU23へ来てくれた。U23東京オープンから毎年スタッフが増え、ゴールデンメンバーが勢ぞろいする。これも当時からの狙い通り。

U23や内海賢祐は、メディアで紹介されたり、外務省認定の日加修好80周年記念U23 Partyを開いたり、Apple Storeや公共の場で登壇したり、東京でも名を広める。資本金を増資して、留学エージェントだけではなくクリエイティブエージェント、ITエージェントとしての活動も増やした。変化が必要だった。レッドオーシャンの留学事業には限界が来ていたのだ。望みを託してバンクーバーや大阪にオフィスを開く。

Hint: 時間をかけて計画を実現する

バンクーバー・大阪(経営者)時代

この時代は、経営者として力のなさに最も苦しんだ時代。この頃はよく違う物事の見方も叫んでいた。日本とカナダの二拠点で暮らすデュアルライフから、トロント、バンクーバー、東京、大阪の4拠点で暮らすクアトロライフとでも呼ベばいいだろうか、完全なるノマドライフに変わりつつあった。U23の後継者を育てるためプレイヤーより監督の時間を増やした。自分がいなくてもうまくいく仕組みを作り、『World Odyssey: 世界23周の旅』もキックオフした。

2007年にAppleが電話の再発明、iPhoneを発表して世界が変わる。あの時代にスマートフォンのようなものを考えた人はいくらでもいたと思うけど、スティーブ・ジョブズのすごいところは、誰も見たことのないものをスタッフやユーザーに伝える力。そして常識をぶち壊す実行力。

U23も留学革命に挑み、未来の留学スタイル、さらには未来の働き方・生き方を提案してきた。しかし、生徒にもスタッフにも誤解されるか勝手な解釈をされ本意が伝わらない。今に始まった事ではないけれど、未来の世界の視点の自分と、現在の日本の視点の人と、見えている世界が違う。中途半端に成長したチームは、U23の真髄であるスピードやクレイジーさを失っていく。言ってもわからないならとリスクを冒してチャレンジもした。

U23東京オープンの3年後にU23バンクーバーをオープン。その4年後にU23大阪をオープンする。バンクーバーは史上最大のインーンシップのプロジェクトとして事務所を開設をした。カナダのスタートアップ企業とシェアオフィスもした。日本のスタッフに憧れの海外勤務の機会を作ったり、今までになり取り組みでマネージャーを公募するオーディションにも挑戦した。世界3都市で同時にパーティーを開いたり、基調講演を行いU23のメッセージを伝えようともした。それなりの効果はあったけど決定打にはならなかった。

大阪では、留学チームとは独立した外国人チームで訪日外国人旅行者を支援を始めゲストハウスをオープンした。リスクを冒しトップスピードでチャレンジした結果、1年で10年以上の情熱を注いできた留学事業の売り上げを逆転した。喜んではいられない。レッドオーシャンに留学事業を沈めるわけにはいけない。ブルーオーシャンのゲストハウス事業もすぐにレッドオーシャンに変わる。U23をぶち壊し、立て直す覚悟を決める。

Hint: 苦しい時も諦めず、違う物事の見方をして、挑戦を続ける。

世界(経営者)時代

新天地での新たなスタート。U23のスタッフは独立し新会社を創設。U23トロント・バンクーバー・東京は閉鎖し、提携デスクとして機能を引き継ぐ。個の時代にまだ間に合うだろう。U23は、CEO(最高経営責任者)兼CDO(最高デザイン責任者)とCTO(最高技術責任者)のミニマムなユニットと、専門のパートナーによる半分以上が外国人のグローバルチームに生まれ変わった。AIもBIもCIも共通言語として話せ同じ未来の景色が見える仲間。U23らしいクレイジーさを取り戻し、国境にも業種にも縛られない新しいチャレンジもはじめている。今年は毎月違う国で暮らしている。旅ブログやメディアもアップデートを始めた。来年は出版も考えている。やりたいことが多すぎて楽しみしかない。来年の今頃はどこでなにをしているかわからないワクワク感。魔法のようなテクノロジーとクリエイティビティで時代は変わる。U23の挑戦は続く。

Hint: 夢の実現のための選択。視野を広げ未知の世界への挑戦。

今回は、内海賢祐の半生をダイジェストで振り返ってみた。

Change The Future…